「昭和の青年将校はなぜ暴走したか5」参照
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健介さんへ2012.7.7
>(伊藤正徳について)戦前は海軍記者として、どれだけ恥ずかしい記事を書いていたか、を知ると彼の狙いはある面、司馬遼太郎と同じ要素がある。
戦前もいい加減なら、戦後もいい加減だろう。いい加減とは変な表現だがまあ気をつけないといけない人の部類という事です。
tiku お薦めいただきましたので、早速『連合艦隊の最後―太平洋海戦史』『大海軍を想う―その興亡と遺産』を注文しました。感想は読んでからにします。ただ、『軍閥興亡史』は文句なしの名著です。これは戦後の作品ですので、戦前の著作と比較するのは大変有意義だと思います。ご紹介ありがとうございました、
>>こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく
>コレハ河本大作のしわざか疑問がだされている。
tiku ロシアの謀略だとか何とかという新説を唱える人(西尾幹二など)もいますが、この事件については、事件直後田中首相が命じた調査の結果からも、その後発見された資料、例えば河本から在京の親友磯谷大佐宛の書簡(岡田芳政によって磯谷家資料の中から発掘されたもので以下のような内容)などからも、歴史家の間では河本主犯説はすでに定説化しています。
ただ、この事件は当時の首相の意思にも反したあまりにもばかげた事件なので、その背後関係を疑いたい気持ちになるのもやむを得ないものがあると思います。私論は、その不思議を、私なりに解明しようとしたもので、なぜ陸軍はそれほどまでして満州問題の武力解決にこだわったか、私は、その真の動機を「十年の臥薪嘗胆」に見ているのです。
河本の手紙は「二枚の三銭切手を貼った書簡の消印は昭和三年四月十八日となっていて、『満蒙問題の解決は、理屈では誰もできぬ。少しくらいの恩恵を施す術策も駄目なり。武力の外道なし』と断定したのち、河本は、『張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やってみる。・・・僕はただ満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」と書かれています。
また、この事件の実行犯である満鉄線警備を担当する独立守備隊中隊長東宮鉄男大尉と、朝鮮の竜山工兵隊から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉は、事件後、田中首相が調査のため満州に派遣した憲兵に、事件の全容を喋っています。この調査結果を受けて田中首相は河本を始めとする事件の関係者を厳罰に処することとし、そのことを昭和天皇にも約束しましたが、一夕会に集まる青年将校等は河本を守るべく画策し、閣僚等も事件が公になることで日本国のメンツがつぶれることを怖れて、これをもみ消してしまいました。そのため田中首相は、約束違反を昭和天皇に叱責され内閣総辞職し一ヶ月後に死亡しました。
この張作霖爆殺事件がおしえていること、それは、これを引き起こした河本はもとよりこの事件の真相をもみ消した軍人らが、既にこの時点で、無知とも卑劣とも暴虐とも、およそ形容しがたい心理状態に陥っていたことを証するものです。そんな心理状態に軍人を陥れたものは何か、この原因を見極めることが必要だと私は思っています。