6960775:張作霖爆殺事件、なぜこんなばかげた事件が起きたのか tikurin 2011/07/07 (Thu) 01:35:21
「昭和の青年将校はなぜ暴走したか5」参照http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-0493.html

健介さんへ2012.7.7

>(伊藤正徳について)戦前は海軍記者として、どれだけ恥ずかしい記事を書いていたか、を知ると彼の狙いはある面、司馬遼太郎と同じ要素がある。
 戦前もいい加減なら、戦後もいい加減だろう。いい加減とは変な表現だがまあ気をつけないといけない人の部類という事です。

tiku お薦めいただきましたので、早速『連合艦隊の最後―太平洋海戦史』『大海軍を想う―その興亡と遺産』を注文しました。感想は読んでからにします。ただ、『軍閥興亡史』は文句なしの名著です。これは戦後の作品ですので、戦前の著作と比較するのは大変有意義だと思います。ご紹介ありがとうございました、

>>こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく

>コレハ河本大作のしわざか疑問がだされている。

tiku ロシアの謀略だとか何とかという新説を唱える人(西尾幹二など)もいますが、この事件については、事件直後田中首相が命じた調査の結果からも、その後発見された資料、例えば河本から在京の親友磯谷大佐宛の書簡(岡田芳政によって磯谷家資料の中から発掘されたもので以下のような内容)などからも、歴史家の間では河本主犯説はすでに定説化しています。

 ただ、この事件は当時の首相の意思にも反したあまりにもばかげた事件なので、その背後関係を疑いたい気持ちになるのもやむを得ないものがあると思います。私論は、その不思議を、私なりに解明しようとしたもので、なぜ陸軍はそれほどまでして満州問題の武力解決にこだわったか、私は、その真の動機を「十年の臥薪嘗胆」に見ているのです。

 河本の手紙は「二枚の三銭切手を貼った書簡の消印は昭和三年四月十八日となっていて、『満蒙問題の解決は、理屈では誰もできぬ。少しくらいの恩恵を施す術策も駄目なり。武力の外道なし』と断定したのち、河本は、『張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やってみる。・・・僕はただ満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」と書かれています。

 また、この事件の実行犯である満鉄線警備を担当する独立守備隊中隊長東宮鉄男大尉と、朝鮮の竜山工兵隊から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉は、事件後、田中首相が調査のため満州に派遣した憲兵に、事件の全容を喋っています。この調査結果を受けて田中首相は河本を始めとする事件の関係者を厳罰に処することとし、そのことを昭和天皇にも約束しましたが、一夕会に集まる青年将校等は河本を守るべく画策し、閣僚等も事件が公になることで日本国のメンツがつぶれることを怖れて、これをもみ消してしまいました。そのため田中首相は、約束違反を昭和天皇に叱責され内閣総辞職し一ヶ月後に死亡しました。

 この張作霖爆殺事件がおしえていること、それは、これを引き起こした河本はもとよりこの事件の真相をもみ消した軍人らが、既にこの時点で、無知とも卑劣とも暴虐とも、およそ形容しがたい心理状態に陥っていたことを証するものです。そんな心理状態に軍人を陥れたものは何か、この原因を見極めることが必要だと私は思っています。

6962034:Re: 張作霖爆殺事件、なぜこんなばかげた事件が起きたのか tikurin 2011/07/08 (Fri) 14:34:13
健介さんへ

>張作霖爆殺事件については、最近いろいろなものが出ています。
 子供の張学良がしたのではという説もありますが、ソ連の仕業だという説も出ています。
 もうすこし調べることでしょう。

tiku この事件について河本大作を主犯とする証拠資料は「ゆうのページ」というサイトに紹介されていますので、参考にして下さい。ただし、このサイトの「百人斬り競争」関係のページは、本多勝一氏への肩入れが目立つだけで、資料の収集・分析ともに極めてお粗末で、お話になりませんが・・・。

 なお、河本が張作霖爆殺事件を引き起こした動機については、森克己『満州事変の裏面史』には次のような本人談が掲載されています。

 「大正十五年三月、関東軍高級参謀となって渡満した。来て見ると昔の満洲とは全く情勢が違っていた。明治四十年頃までの満洲は、満人達が日本を信頼して居ったので、旅行も出来たのであるが、今度来て見ると、満人の日本人に対する態度は、北京に於ける支那人の日本人に対する態度よりも悪い有様で、排日思想が瀰漫していた。

 張作霖の周囲には松井七夫とか、名前を忘れたが某大佐とかが居り、この人達の話を聞くと満人よりも日本人の方が悪いのだという。作戦の必要上、黒河・斉斉哈爾等各地を歩くと、各地共排日傾向が濃厚で、路上で日本人が支那軍警に侮辱を加えられていることなどを目撃し、憤慨に堪えなかった。」

 これによると、満州における対日感情は大正年間に相当に悪化したようですが、この辺りの事情については、もっとよく調べてみる必要があると思いました。

以下追記7/8 14:00

 いずれにしても、実行犯が河本等であることは彼ら自身の証言その他物的証拠もあり間違いないと思います。ただ、ソ連も、張作霖がソ連の東支鉄道の利権を脅かす存在と見ていたということでしょうね。従って、プロホロフの所説が認められるためには、これらの証言・証拠を虚偽であると証明しなければなりませんし、その唯一の可能性は、河本がソ連諜報員と密接に連携してことを起こしたとするほかありません。しかし、その場合も、河本等がこの事件に関与したことになり、日中戦争をソ連の陰謀とする説は成り立たないことになります。

 やはり、関東軍が満州問題の解決のための大局的な観点を持たなかったこと。軍縮の流れの中でなんとか軍の活路を開きたいとの思いから安易に満州の武力制圧に走ったこと。その時の彼らの心情は、河本を英雄視し、この事件のもみ消しに狂奔するほど異常なものとなっていたこと。すでに、この段階では”皇軍の道義”のかけらもない心理状態に陥っていたということです。

 確かに、21箇条要求以来の中国における反日ナショナリズムの高まりの中で、張作霖が抑制的であり、日本の満州における条約上の権益を無視するなどの過激な行動をとらなければ、事態はここまで悪化することはなかったと思います。また、仮に、張作霖がそうした行動に出たとしても、満州の主権は日本軍の犠牲で守られたものであり、関東州や満州鉄道に関する日本の利権は国際的にも認められていたのですから、それが侵害されたと国際社会が認めるまでは日本軍の武力行使は控えるべきでした。

 このことは、満州事変についても言えることで、幣原は張学良の排日運動に対して、同様の対処法をとりました。つまり、それまでは国際社会の理解を確保しつつ穏忍自重し”堅実に行詰まる”べきと考えていました。しかし、軍はこれでは困るのですね。なぜなら、この満州事変は一種の政府に対するクーデター的性格を持っていたからです。

 つまり、「満州問題」には、満州における日本の権益擁護という問題と、軍縮下における日本軍の不満をどう解消するか、という二つの問題が含まれており、この後者の問題を政府がうまく処理できなかったために、軍が満州を武力占領するという形でこの問題の独自解消を図った、ということなのです。張作霖事件もこの過程で起きた事件と見るべきです。

 まあ、戦後自衛隊が国民からどんな扱いを受けたかを知っている私たちには、この時代の雰囲気はおおよそ見当がつきますが・・・。