一知半解さん、お久しぶりです。
表題、「民主主義とは民衆の一人一人が『君主』である」は、「君主」でなく「主」であれば誤解されなかったかも知れませんね。(「一知半解」さんブログ参照)
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-636.html
今、私たちの目にしている日本の政治情況ですが、現代の政治家達がいかに帝王学を身につけていないか、権力のためにバカになっているか、なんとも情けない姿ばかりが目に付きます。それに、「無限の要求をする民衆」その「要求に迎合するしかない」政治家たちの群れ・・・。
以下、ご紹介いただいた山本七平の言葉をまとめてみました。( )内は筆者の補足
「君」という「主」は打倒できるが「民」という「主」は打倒できない。
そしてこの「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう。
かってプラトンは、この「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかない、と考えた。
だが、「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか、となるとこれはだれが考えてもむずかしい。
現代にたとえれば、「税金は払いたくない、しかし社会保障はあらゆる面で十分に享受したい」という民衆の要求を、民衆が選出した代議士に制定させようとしても、少々無理ということ。
この無理を(何とか続けようとして)、かつては植民地を搾取することで何とかやりくりをして来た国もあった。
(それができないとなれば、その無理を続けるためには、科学技術による富の創出という、かっての「錬金術」に頼るしかない。)
そして現代の「民」という「主」は、科学技術が新しい富を創出し、それが自分たちの無限の欲望を次々に充足してくれると信じて疑わない。
だがその「信じて疑わない」は果たして根拠があるのか。
それは非常に危い基盤の上に立っているのではないか。どこが危いのか。
まず、その状態が人をどう変えてしまうかであり、次に、錬金術の独占が果たしてつづくか否かである。
まずあらゆる欲望が充足されるような状態は、人びとの意識を変えて錬金術への情熱を失わせるかもしれぬ。
そしてこの内部的変化が起こったとき、外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手が現われたとき、どうなるか。
(その時、今まで信じてきたものが)一挙に転落して不思議でない。
そのとき「貧しき民主主義」を頑として維持するには宗教的信仰に近い強固な思想が必要なのだが、ではそれがあるのか――。」
(以上)
おそらく、現在の日本は、「外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手」の出現に直面すると同時に、「核」というエネルギーの錬金術が地震によって崩壊した時であろうかと思います。それによって「人々の意識」がどのように変わるか・・・。
日本人は「貧しき民主主義」を頑として維持することができるか?かってプラトンは、この民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかないと考えた。では、日本人に、この「法」による「民衆の無限の要求」の制御ができるか、それが、日本の「転落」を食い止める唯一の方法なのですが・・・。
戦前の日本人は、この「法」思想よりも「純粋」思想を選択し「転落」しました。その昭和が、関東大震災後に始まっていることに、私たちは十分の注意を払うべきだと思っています。