6920074:田原総一朗「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」の行方 tikurin 2011/05/22 (Sun) 19:18:32
 田原総一朗氏の標記の本について、ネットでは、”田原総一朗が転向した”というようなう意見が多く見られます。「あの田原総一朗が「大東亜戦争肯定論」へ転向」http://virya.blog72.fc2.com/blog-entry-21.html

 田原氏は、こうした自説をyoutubeやラジオ番組で語っています。言わずもがなではありますが、この中で、2.26事件で重傷を負った鈴木貫太郎を鈴木貞一などと非常識な言い間違いをしていますし、天皇が決起将校達に対して激怒したのは、昭和天皇の子供の頃の乳母が鈴木夫人だったから、などど”いいかげん”なことをいっています。(そんなの一つのエピソードに過ぎません)

 戦前のアジア主義者が支那の近代化にかけた思いに注目することは大切なことです。また、北一輝が、青年将校たちと違って「純粋素朴な天皇親政」を信じていたわけではないこと。あくまで天皇を”使いよい玉”としていたこと。つまり、北は機関説論者だった、という事を今あえて言いたいのなら、、指摘すべきは、北は、皇道派の青年将校達を”使いやすい玉(この場合は弾?)”として利用しようとしていたのかもしれない、という”残酷物語”についてでしょう。

 『VOICE』の件の論文の末尾の文章は次のようになっています。

「その北一輝がなぜ青年将校達にそのこと(天皇を使いよい玉として利用すること――筆者)を教授しなかったのか。なぜ高天原的存在で満足していたか。あるいは、二・二六事件は、北一輝にとって死に場所探しだったのであろうか。」
 
 北の本音を、彼らに教授できるわけがないでしょう。北一輝の機関説論はむしろ統制派のそれと一致していたわけで、皇道派はそれとは仇敵関係にあったのです。事実、それゆえの二・二六事件であったはずです。

 それにしても斉藤実、鈴木貫太郎、渡辺錠太郞、高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望などか弱き老人を殺し、彼らにとっては仇敵であるはずの統制派の巣窟=参謀本部や陸軍大臣官邸は、占拠して「陸大臣に面接して事態収拾に付、善処方を要望する」という程度の隠微な処置に止めたのはなぜでしょうか。

 まあ、「決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり」の「陸軍大臣告示」に見るように、彼らも畢竟身内だし、決起には賛同してくれるはずだと、甘い瀬踏みをしていたのでしょう。で、もし彼らの賛同が得られたら、過去のことは水に流して仲良くやるつもりだったのでしょうか。となると、彼らのその不満の根源は一体何処?という疑念に駆られます。

 この点、石原完爾も、模様眺めで、うまくいくようであればこれを利用し、軍主導の国家社会主義体制に持って行こうとしていたという疑い濃厚ですからね。このことは、事件後の広田内閣の組閣における彼らのやり口を見れば明白です。反省どころの話じゃないのです。この辺りの駆け引き、皇道派の皆さん一体どこまで読んでいたか。

 おそらく、北一輝もそうした可能性に期待をかけていたのかも知れません。それが挫折してしまった、故の”若殿に兜とられて負け戦”なのです。おそらく、そこまで昭和天皇が断固たる意思表示をするとは北も思っていなかったのでしょう。だって、機関説論者にしてみれば、天皇がそんな断固たる意思表示をするこことは一種のルール違反ですから・・・。

 そんな意外感がこの句に表れていると私は思います。ユーモア(田原氏の言)なんかじゃありません。一種あっけにとられた図なのです。まして、”死に場所探し”なんて西郷じゃあるまいし、「日米戦争は愚の愚」としたリアリスト北一輝ですぞ。もちろん、青年将校達にしてみれば、自分らの信じていたものとは真逆の大御心が示されたのですから、恨む外なかったのです。

 なお、”転向”云々は、本を見てからにしますが、アジア主義者と、その後の国家社会主義者そして尊皇思想の青年将校達との絡み合いが、うまく捉えられているかどうか。まさか、昭和天皇に対して、”青年将校の声にもっと耳を傾けるべきだった”などと言いたいのではないとは思いますが・・・。もしそうなら近衛と同じで、何を今更!ということになりますね。

6924711:Re: 田原総一朗「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」の行方 tikurin 2011/05/28 (Sat) 06:01:14
田原総一朗氏は著書『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか』の中で、板野氏に、日本は「明治以来、欧米に侵略されて植民地化されたアジア諸国の独立、解放を日本の使命としてきたことは、私は正しかったと捉えている」が、その日本は「どこで失敗コースにはまり込んだか」と板野潤治教授に問うています。

 これに対して板野氏は、「矢張り満州事変だね」と答えた。その理由は、「第一次世界大戦後、日英同盟が終わってからも日本はイギリス流を支持し、米国と対立してきた」。そこで「日本政府としては満州事変は英国が支持してくれるものと思い込んでいた」。しかし、その「イギリスに裏切られた」。そのため、「日本は失敗コースにはまり込んだ。」、田原氏は板野氏の言をそのように解釈しています。

 以下、そのことについての敷衍的説明。

 「従来の歴史書では、ワシントン会議以降、民族自決、反覇権主義という世界の大潮流のなかで、日本だけが時代に逆行するように中国での権益に執着し、さらに満蒙支配を強行して世界から孤立して崩壊めがけて突っ走ったというのが定説となっているが、〈中略〉坂野潤治は、敢然と異を唱えている。

 たとえば、一九二八(昭和三)年に米、英、仏、日、独、伊など一五力国でパリ条約あるいはケロッグ=ブリアン条約(当時のアメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名からこう呼ばれる)が締結されたが、坂野潤治は『20世紀システム①構想と形成』の第四章の『「連盟式外交」と「アメリカ式外交」の狭間で』のなかで、条約の締結直前に発表した蝋山政道の論文を紹介している。

 不戦条約をめぐる米国と英仏の利害が対立しており、『アメリカ式外交』と『国際連盟式外交』に大別できるが、国際連盟式、つまり英、仏、伊は、当時支配していた植民地を解放するのではなく現状維持方式であり、それに対して米国は既得権益擁護ではなく徹底的民族自決方式であった。

 このように比べると、米国式が理想型だと捉えやすいのだが、蝋山は、米国式は国連の加盟を拒否するモンロー主義でいながら、戦争なき国際平和を主張する『矛盾外交』だと言い切っている。そして、少なからぬ中国での権益をもち、朝鮮や台湾、樺太の南半分を領有している日本は、国際連盟式であり、英・仏式の仲間であった」

 「当時は米国のほうが国際的に孤立していて日本では『英米可分論』が強かった。主張の異なる英国と米国は切り離すことができる。そして日本は日英同盟が終わっても英国を信頼していて、あくまで英国と組むべきだという考え方が強かった。田中義一もその一人です」

 坂野はこう説明した。
 柳条湖事件は、中国側が仕掛けたと発表しながら、じつは石原莞爾などの関東軍による犯行であり、それをきっかけに満洲事変を起こし、満洲国までつくってしまったのは、いかなる理屈を並べても自衛のための正義の戦争とはとてもいえない。侵略戦争である。

 だが、それまでに英、仏、蘭、そして独など世界の列強が惹起した戦争はほとんどが侵略戦争である。そこで日本政府は、もちろん満洲事変を自衛の戦争とは捉えてはいなかったのだが、世界最大の侵略国であり、同じ常任理事国である英国が当然支持してくれると思い込んでいたのだというのである。」

 しかし、こうした記述からは、石原莞爾等が満州事変を引き起こしたのは、①イギリスがこれを支持してくれると思っていたから、とも読めるし、また、②満州事変勃発当時の政府がそのような期待を持っていたというようにも読める。また、いやそうではなく、③第二次若槻内閣が退陣した後の犬養政友会内閣がそう考えていたとも、さらに、④その後の斉藤内閣がそう考えていたとも読めます。

 一体そのいずれの意味だろうと思って、その板野氏の本を読んでみました。そうしたら、板野氏の言っていることは、要するに、満州問題(満州事変ではない!)について、「日本が過去において多大なる犠牲を払いたる結果同地方に膨大なる権利を益々有することに付いては何人もこれを了承するに難からず」(28年9月イギリス外相バークンヘッド)と言ったこと。つまり、イギリスは日本の満州権益を(その後も一貫して)認めていたということを指摘しているだけで、決して、満州事変をそのものを認めた、といっているわけではないことが分かりました。

 まあ、当たり前と言えば当たり前の話で、幣原だって同様の考えで、もし張学良や中国が強引な旅大回収行動に出れば、日本としては最終的に武力に訴えることもあり得ると考えていて、それまで「堅実に行き詰まる」必要がある、と考えていたのです。イギリスとしてはリットン報告書に見るように、一種の委任統治のような形を日本に満州経営を認める考えだったし、幣原は満州事変が起こる直前、中国の広東政府の陳友仁と話し合って、日本がハイ・コミッショナーとして満州を経営することも考えていました。

 それだけの話なのですが、田原氏はこれをイギリスが石原莞爾等が引き起こした満州事変を侵略戦争と承知の上で認めていた、と解釈し、こうした解釈をその後イギリスが撤回してアメリカと共同歩調をとったために、「明治以来、欧米に侵略されて植民地化されたアジア諸国の独立、解放を日本の使命としてきた」日本が「失敗コースにはまり込むことになった」というふうに理解し、それで納得しているのです。

 となると、田原氏自身も、石原莞爾等の引き起こした満州事変を侵略戦争であると知りながらあえてそれを認めていることになります。また、もし、イギリスが満州事変を引き続き支持してくれていたなら、日本はアジアの独立と解放を実現できた、と言っていることになります。このために、「田原総一朗は、大東亜戦争を聖戦と言った」「転向した」といった評が、ネット上に現れることになったのです。 

 しかし、これは私には、これは田原氏が板野氏の説を誤解しただけのもののように思えます。しかし、肝心の田原氏自身の意見も、先に紹介したよう四つの考え方の何れとも分からないし、一体全体何が言いたいのかよく分からない。全体的な議論の整合性もないし論評に値しないと思っています。

 ただ、板野氏の論文は大変おもしろく読ましていただきました。特に広田協和外交を軍中央において支えたのは永田鉄山であり、広田は永田による関東軍の華北進出の抑制に期待していた、という指摘は大変おもしろいと思いました。

 その永田を軍務局内で堂々と斬殺し、その後何事もなかったように台湾に赴任するつもりだったという皇道派将校相沢三郎の狂気、それを裁判で弁護し続けた皇道派という純粋狂気集団の存在、それを利用、あるいは逆利用しようとしていた魑魅魍魎たち。そして皇道派の純粋を信じていた近衛など・・・こうした、この時代の思想的混乱を納めるだけのものを、果たして永田は持っていたか、調べてみる必要がありますね.

6921206:Re: 田原総一朗「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」の行方 tikurin 2011/05/24 (Tue) 01:47:43
。「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」を読んでみました。以下その感想です。

 大アジア主義挫折の経緯を明らかにすることが,昭和の戦争を総括する上で極めて大切だ、という問題意識については私も同じです。だが、そのアジア主義者の思いが大川周明や北一輝らイデオローグによってどのように理論化され、それが軍部の国家社会主義者の思惑や皇道派の青年将校の思いとがどう絡みあって、対米英戦争という最悪の選択をするに至ったのか、この間の共鳴・ズレ・妥協・利用の関係が少しも解明されていない。

 一体何が言いたいのか判らない。単に、かってマスコミでタブーとされ、自分も触れられなかったアジア主義者や右翼イデオローグの思想が、意外にも立派なものだったということに、始めて気がついたというだけのもので、およそ論の体をなしていないと思います。

 さらに、通説に疑問を投げかけるというが、例えば田中外交の再評価など、森恪との関係を抜きにしては何も判らないし、「南京事件」についても松井石根の思いを述べただけで、何ら自らの判断を示しているわけではなく、市民を含めた大虐殺が12月13日から15日の間に起きたと言う「通説」はそのままにしている。”怖いのか”と言いたくなります。

 また、日支事変勃発時の不拡大派と一撃派の関係も曖昧な記述に終始し、松井とトラウトマン工作との関係も憶測止まり、肝心のなぜアジア主義が挫折することになったかという疑問についても、幣原外交を不干渉外交で切り捨てる一方、満州事変を”イギリスが支持すると日本政府が思っていた”などという珍妙な解釈で納得している(私もこの本読んでみますが)。

 また、リットン報告が日本よりだったことなど目新しいことではないし、問題はなぜこれがマスコミによって一蹴されたか、その謎の解明がなされているわけでもなく、結論は”日本の孤立の原因はイギリスだ”などという、訳の判らないことになっている。

 また、北一輝の国家社会主義が単純な農本社会主義ではなかったこと、万世一系の天皇制などインチキと見抜き、日本の歴史を君主制、貴族制(鎌倉から江戸)、民主制(明治以降)に三区分していたことなど、確かに北の勉強とオリジナリティーを示すものではありますが、「国体論及び純正社会主義」を読めば判ることで、田原氏が、それを読みもせず、今までマスコミ界のタブーに触れることを怖れて悪者扱いしていた事が判るだけの話で、その説を思想史的に検証することは何もしていません。

 従って、田原氏が「転向」したかどうか、と言うことについては、氏は「転向」する勇気のある人ではなく、危険な箇所では曖昧に自らの判断を示すことから逃げていて、ただ保守化の流れの中で、にわか勉強でそれに乗り本を売ろうとしただけ。よくこれが連載され本になるなーという印象でした。いくつか検証したい論点はありましたが。
 以上。