6882830:「応報」を求めない思想が大切 tikurin 2011/04/05 (Tue) 15:21:48
「一知半解」さんのブログコメントより
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-557.html

 石原知事の「天罰発言」を考えるのに、山本七平の『禁忌の聖書学』の「結末なきヨブの嘆き」を丁寧に紹介されたことは、事の本質を突くものであり、誠にすばらしいと思いました。

 石原発言の妥当性については、この本の中の紹介されている菊池寛の、関東大震災の時に出てきた「天譴論」に対して発された言葉、「……あの地震を天譴と解した人などいたが、私はあの地震で、天譴など絶対にないことを知った。若し天譴があるならば、地震前栄耀栄華をしていた連中が、やられそうな筈が、結果はその正反対であった。……私自身、あの地震を境として、人間が少し悪くなったような気がする……」
 が最も妥当な批評ではないかと思います。

 石原氏は本来、自由な発想をもって身上としているはずですが、年を取ったせいか最近は「観念固着」が見られるようになった、というのが私の感想でした。

 ところで、ご紹介いただいた山本七平の次の言葉、

 「親の因果」のように、「資本主義という時代」の因果は必然的に社会主義社会さらに共産主義社会を生み出していく。

 そして人は応報を未来に求めて動く。
ではその時代が来れば、「新しい神」の創造した世界の秩序すなわちその「義」と、そこに住む各個人の「義」に相剋はないのであろうか。

 あるであろう。

処刑された者の名誉回復という奇妙な”復活”がある限り――。」

 こ文の末尾、「処刑された者の名誉回復という奇妙な”復活”がある限り――。」は一体何のことを言っているのでしょうか。

 私は、これは、氏自身が、百人切り競争虚報報道のために有罪となり処刑された、向井敏明氏と野田毅氏の二人の冤罪を晴らしたこと、及び、フィリピンの捕虜収容所における捕虜虐待の罪で処刑された韓国人の洪思翊中将の冤罪を証明しようとしたこと、を指していると思います。

 とすると、罪なくして滅ぼされたものを救うことも、この世に生きる人間の「義」となるわけで、ただし、それによって山本七平は激しい攻撃を受けることにもなったわけですが、これは氏自身の応報思想を超えた思想の現れであったと思います。

 日本人にとって「神」の位置に在るのは「自然」です。だから人災も含めて天災=自然災害のように受けとめ「仕方がない」であきらめ・・・つつ、その不条理を「もののあわれ」で「慰め」そして「平安」を得る・・・。

 そこで「天罰」などというと、この「自然」が何らかの意思を持っているように受け止められ、これが現代の日本人の無意識の宗教意識を刺激するのですね。石原氏は確か法華経の信者ですから、この辺りから「天罰」という言葉が出てきたのだとは思いますが・・・。

 不条理な自然の力、それを克服しようとする人間の営為、自然と折れ合う中で自然と調和して生きようとする日本人の心・・・、対象が自然だけなら、おそらくこの両者のバランスさえ考えれば良い、ということになるのでしょうが、問題は、この不条理な自然の力は人間の中にも宿っているということです。

 こちらの本性をリアルに認識すること。その引き起こす厄災をコントロールするしたたかな思想をもつこと。簡単に「しかたがない」で諦めないこと。それが日本人の思想の課題なのではないでしょうか。「応報を求めない」言論こそが大切だと思ったことでした。
6897810:Re: 「応報」を求めない思想が大切 渡邉 2011/04/25 (Mon) 21:10:24
岡元の縁ですね。ホントにご無事で何よりでした。いろんな体験や勉強をされたことと思います。意見交換できるのを楽しみにしています。ともあれ連絡ありがとう。
6896209:Re: 「応報」を求めない思想が大切 タカダアキオ 2011/04/24 (Sun) 01:41:51
私信で申し訳ありませんが、今日中にお伝えしたかったのです。長渕剛、よかったです!邂逅を標して