6826603:蒋介石の「以徳報怨」はどう評価すべきか tikurin 2011/01/27 (Thu) 05:25:19
健介さんへ
>>tiku 『蒋介石秘録』等で蒋介石の言葉を読むと、中国における「大人」という言葉にふさわしい悠然たる風格と知性を感じますね。それにしても、中国の国民が、「不念旧悪」「与人為善」という蒋介石の呼びかけによく従ったものだと驚きます。こうした蒋介石の「以徳報怨」の態度は、旧軍人を含めた多くの日本人を感動させました。しかし、蒋介石がやったことはそれだけではなかった。ソ連による日本の分割占領を阻止しようとしたことや、また、対日賠償請求放棄を率先し戦後日本の復興を可能ならしめたのも氏でした。このことを、日本人は決して忘れてはならないと私は思います。

>これはナイーブ過ぎるでしょう。蒋介石は台湾を資産を取りましたよ。もし交渉をするとなったら台湾や満州に合った日本の資産を計算をするとこまるのではないですか?

tiku 確かに、満洲や台湾それに中国の主要都市のほとんどが含まれたという日本占領地における日本の投資額(在外資産)は膨大なものであり、蒋介石は日本との平和条約でそれを「現物賠償」として没収しました。ただし、それ以外の賠償請求権は放棄しました。果たして日中戦争の間、中国が被った被害がどれほどのものか、蒋介石は、この間、戦闘は大会戦22回を含めて38,922回、3,311,419人の将兵が死傷し、非戦闘員の死傷は842万人を超え、さらに一家離散、飢餓などの被害を加えれば、その数は膨大なものになる。一方、公私有資産の直接的損失は・・・1937年6月現在の米ドルで換算して313億余ドルに達し、・・・日本政府の一般会計歳出の・・・全額を持って賠償に当てても半世紀近い年月を必要とする・・・と述べています。

 その一方、ソ連による満洲略奪については次のように述べています。

 「九・一八事変」以来14年間、日本は百億ドルを超える資産を東北に投下、膨大な発電設備を始め、銅、鉄、石炭の再掘、セメント、紡績、石油、化学工業など最新設備の工場を建設し、三千五百万人の東北同胞の血と汗のうえに、一大軍事工業システムを作り上げていた。
 国民政府は、これら東北にある日本の鉱工業資産は、すべて中国にたいする現物賠償に当てることをソ連に通知していた。しかし、ソ連側は、これに一切耳をかさず、東北の鉱工業はソ連の”戦利品”だと言い張り、そっくり取り外して盗みさったのである。・・・
 ソ連の略奪は、生産設備に止まらなかった。日本の関東軍の武器、装備も大量に上るその量は、関東軍がかって「十年間の戦争を維持できる」と豪語したものであった。これらの武器を、ソ連は、共産軍にそっくりそのまま渡した。 

 これを見ると、中国が計算した物的な被害額と日本が残した在外資産評価額とは、満洲、中国本土、台湾のそれを含めると、ある程度バーターするかも知れませんね。もちろん、人的な被害補償を除外した場合の話ですが・・・。この後者の部分の賠償請求を放棄したという意味ですね。蒋介石の「以徳報怨」と言われる終戦処理の意味は。これによって、約213万人に上った日本人軍民が、強制労働などの報復的措置を受けることなく、約10ヶ月後の1946年6月までに一部戦犯を除いて全員日本に送還されたのです。これをソ連のやったことと比較して見る必要があると思いますね。

>難しく考えるのではなく、負ける事がわかっている国に応援をする国は無いという単純な歴史的事実を思い起こせば言いだけで、何とかしてソ連に頼むというのは頭がいい人が頭で考えるだけのことに過ぎない。

tiku ソ連に対する対応を誤ったのは、日本だけではなくアメリカもそうだったのですね。1946年4月22日の蒋介石の日記には次のような記述があります。

 「政府軍の輸送は米国に頼らなければならず、一切の計画は米国の牽制を受けている。ところが米国は、その海軍の出動を見合わせ、輸送を中止すると脅迫し、共産党に妥協せよという米国の建議を、われわれがのまざるをえないようにしている。今共産党と妥協することは、ソ連に屈服することにほかならないということが、まったくわかっていないのである。共産党の意気が高揚しているいま、米国の過酷な条件を甘んじて受けることは断じてできない。このことをマーシャルにはっきり述べて、彼の覚醒をうながすべきだろう。」

 つまりアメリカは、戦後の中国の政治的統一について、蒋介石に対して共産党と妥協して連合政府を作るよう圧力をかけたのですね。ところが共産党の戦略は、「不戦不和(戦わず和平もせず)、以戦以和(戦うようであり、和を求めるようでもある)の局面の元で、取りきめを引き伸ばし、国家を混乱状態のおちいらせ、政治を動揺させ、経済を破産させ、持って政治を転覆し、中国を赤化することをもくろむもの」(6月24日日記)だったのです。そしてその革命プログラムをソ連と共同歩調を取って遂行していったのです。

>それよりも終戦のやり方も、開戦のやり方もまじめすぎます。

tiku 黄文雄氏は、日本は日中戦争を通して「中国に法治主義による平和をもたらし、占領地における産業近代化を推し進めた。中国人は日本の占領によって平和と安定の尊さを知ることができた」と述べています。日本の満洲建国も「連省自治の平和構想の実現」であり、近衛首相が発した「東亜新秩序建設」も軍閥、匪賊から搾取、略奪を受けることのない、そして生命、財産が確実に保護される平和な秩序をアジアに打ち立てるという意味で文明的な意義を持っていた、と言います

 こうした観点からいえば、蒋介石の台湾における統治は、日本のそれに比べて相当拙劣なものであったようで、黄文雄氏はそうした経験を踏まえて、この時代の日本人の「善意」と「近代国家建設能力」を肯定的に評価しているのです。私も、「善意」はないよりあった方がいいと思います。しかし、「善意」の押しつけは、おおにして他者の人格を無視することになり、それを国家間で武力を用いて強制すれば文化侵略となり恨みを買うことになる。要するに、こうした影響力行使における方法や手順の合法性が求められるのですね。「まじめ」であるということは、この合法性を守るという意味では大切なことだと思います。日本は満州事変以降これを軽視したし、昭和16年末の日米交渉に関して言えば、”カッ”となったのが失敗だった、ということですね。そこが、維新期の修羅場をくぐった明治の指導者と、学歴エリート軍人であった昭和の指導者の違いだと思います。
6839468:Re: 蒋介石の「以徳報怨」はどう評価すべきか tikurin 2011/02/11 (Fri) 23:22:54
ao-09さんへ

>この蒋介石の「以徳報怨」からなのでしょうが、父が戦後処理について中国は懐が深いというようなことをよく言っていました。でも彼(蒋介石)は国民党を率いていたので、現政権の中国共産党からすれば敵ですね。これをもって現在の国のあり方としての中国を論ずるのは難しいところがあるような気がします。中国共産党はしたたかですから、この蒋介石の行動をもってプロ中国、反日に欧米社会にアピールすることには大変成功していると思います。日本の分は悪いです。

tiku 戦後、日本人が蒋介石に対して抱いた「恩義」について、①蒋介石がカイロ会談において「天皇制」の存続を支持したこと、②日本敗戦時「以徳報怨」の東洋道徳に基づき「対日賠償の放棄」と日本人兵民の「無条件送還」を実行したこと、③ソ連による「日本の分割占領」を阻止したことなどが指摘されます。

 これらに対して、それは「蒋介石神話」であって、実際は、ソ連の対日参戦により、ソ連と中国共産党が結びつくことを恐れた蒋介石が、日本軍の国民党軍に対する武装解除を円滑に行うことによって、その後の中国共産党との戦いを有利に進めようとした政治的判断に基づくものであった、とか、健介さんが指摘されたような批判があります。

 が、いずれにしても、こうした蒋介石の大局的な判断が、当時の日本人を心底揺り動かすものであったことは事実でした。支那派遣軍総司令官だった岡村寧次は、大陸における戦闘においては日本軍は中国軍に対して連戦連勝と自負していましたが、天皇の玉音放送1時間前に放送された蒋介石の「以徳報怨」の演説を知って初めて「完全な敗北」を実感したと言います。

 これは、いわば日本人の心情的な反応と言えますが、以上の蒋介石の下した判断が、日本が戦後の国際政治情勢の変化の中で生き残っていく上において、決定的に重要な政治的判断であったことは疑いを容れません。そして、そうした判断を導いたものが「以徳報怨」の東洋道徳であったとすれば、東洋道徳も捨てたもんじゃないと言うことになります。

 では、こうした蒋介石の発言は当時の中国人にはどう受け止められたのでしょうか。当時の英米の各新聞はこれを「世界史に類例のない・・・最も寛容で、哲学的な格調高いもの」と評しました。しかし、「北京の知識人層にはその高い理念に感動し支持するものも少なくなかったが、一般的には大きな不満の声があがった」といいます。

 ”それは当然だろう”と思いますが、日本兵130万、居留民80万人の中国からの引き揚げが、終戦の年11月から約10ヶ月で終了した。それも他の地区からの引き揚げ者は裸同然だったのに、中国本土からの引き揚げ者は「衣料品等も一通りは当分の生活に困らない程度に荷物を持って帰ってきた(一人30キロまで許された)」というのは、蒋介石の指令なしには考えられません。

 もちろん、占領地における日本人の統治能力が中国人よりも高かったということ。確かに日本軍に協力することを忌避する中国人は多かったわけですが、その治安維持能力、組織管理能力、経済運営能力が高かった(日本軍支配下にあった華中では「ほとんどインフレにならず、物価も上昇しなかったという)ために、中国人の日本軍に対する怨みはそれほど強くならなかった、ということ言えるのではないかと思います。

 これに比べると、蒋介石ら国民政府が重慶から戻ってきて、「敵区」(日本軍の占領地区)や「淪陥区」(親日の王精衛政府に支配地域)を管理するようになると、却って、民衆は過酷な経済的略奪や搾取を受けるようになり、そのため、「多くの民衆は仕方なく中国共産党に新たな期待するようになった」といいます。台湾でもそんなことで、一般民衆の反発を招き、それに対する弾圧がなされ、蒋介石の神格化が行われました。

 ところで、この蒋介石の「以徳報怨」の演説に対し、最も激しく反発したのが、国民政府と敵対し、戦後の大陸においてその勢力拡大工作を一気に展開していた中国共産党でした。この蒋介石の演説を、周恩来は次のように激しく批判しました。

 『日本軍が中国に与えた損害の賠償として500億ドル(当時の日本円で約18兆円)を要求すると共に日本国内の鉱工業施設をすべて接収し、これを大陸に移すべきである。同時に中国に残留する日本軍人及び一般人200万人はそのまま抑留し、中国が戦争以前の姿に復旧するまで労務使役すべきである』」(『白団』中村祐悦p60)

 では、日本人に対する、この蒋介石と毛沢東の差はどこから生まれたのでしょうか。それは、端的に言えば、両者の思想あるいはイデオロギーが違いと言うことになりますが、実は両者の思想は、単なる違いで済まされるものではなく、中国思想をどのように発展させていくかという点において、根本的に相容れない対立関係にあったのです。

 蒋介石の思想は、儒教における「礼義廉恥」の道徳規範の徹底を図ることでした。しかし、それは伝統的村落秩序=地縁的・血縁的人間関係が一切を支配する社会関係に基礎を置くものだったために、私的・個別的利害の蔓延、村落の上下秩序関係の強化となり、底辺農民に対する一層の搾取・重圧として跳ね返ることになった。特に徴兵体制は拉致の色彩を帯び、兵の士気や規律の低下は避け難かったといいます。

 これに対して毛沢東の思想は、儒教の「牧民的」政治観が生んだ、政治をつねに「運命あるいは天命として甘受する農民の心性」を、土地の平等分配や租税の減免、汚職・腐敗の摘発などを通して、イデオロギー(マルクス・レーニン主義)的精神統一を図ろうとするものでした。これが兵士や農民の生産活動を促すものとなり、また、その安全や利益を保障するものとなって、彼等を味方につけることが出来たのです。(『蒋介石と毛沢東』参照)

 そんなわけで、国共内戦においては、中国共産党が次第に勢力を伸ばすことになったわけですが、いうまでもなく、そのイデオロギーはマルクス・レーニン主義に基づくものであり、儒教思想は階級イデオロギーに過ぎず、日本は帝国主義国家という位置づけでしたので、それは撲滅の対象にしかならない。それが先の周恩来による対日賠償要求に現れていたのです。

 では、この蒋介石の「以徳報怨」という考え方をもたらした儒教道徳と、毛沢東の、一定のイデオロギーに基づく「思想改造」を強制する思想とは、どちらが優れているかということですが、確かに後者は、前者の「牧民的」政治思想を「民主的」に改造しようとした点では一定の成功を収めましたが、政治権力が個人に思想改造を強要するに至った点では、儒教道徳より退化したと言えます。

 言うまでもなく、儒教思想は、政治的救済が道徳的救済となるという点において、大きな問題点を抱えています。つまり、政治が道徳の理想を体現することになっているために、結局、政治権力が理想化され批判が許されなくなる。だからこそ儒教では、政治権力者=統治者自身に孔孟的治者規範が求められたのです。だが、毛思想の場合は、この権力行使を規範化する道徳がない、というか否定した。

 これが、毛思想が、その後露呈したような儒教思想に及ばない点なのですね。では、これに対して日本思想はどうなのか、ということですが、結局、問題は思想における「義=正義」の観念の絶対化をいかに防ぐか、ということにあります。この「義」は社会に秩序を維持するためには絶対必要だけれども、同時に、その絶対化を避ける、特にそれが政治権力の絶対化に結びつかないようにするということが大切です。

 では、日本の思想は、この思想の絶対化を防ぐものを持っているか、ということですが、これは、日本人が「人間的」という言葉で表すところの、究極的には「もののあはれ」という言葉で言い表される、人間と自然(=絶対者)との対話の中から生まれた「あはれ」の感情なのではないかと思います。これが儒教に対するバランス装置としての国学の思想的ベースになっていたと思います。

 だが、これは一つの感情であって、七情(喜・怒・哀・苦・愛・悪・欲)に惑わされやすい。だから、できるだけこれらを抑えて、「即天去私」の平静かつ純粋な心的態度を保持すべきだ。これが江戸時代における儒教の日本的解釈の到達点だった。幕末になると、ここにおいて人間がそれに即して生くべき「天」のメッセージを具体的に伝えるものとして、尊皇思想が生まれ、これが明治維新という抜本的な体制変革を可能にした。

 こうして、明治における時代精神は、「即天(皇)去私」となったのです。また、この時天皇自身は、後期天皇制の伝統を受け継ぎ、立憲君主制における「君臨すれども統治せず」と親和した。また、国民は去私の精神で国の近代化に尽くした。こうして、日本は文明開化、富国強兵、殖産興業による近代化に成功したのです。ところが、この( )の中に、何を容れるかで事態は変わってくる。

 昭和は、ここに国家社会主義思想と親和した尊皇イデオロギーが挿入され、その「尊皇」と「軍」とが統帥権独立によって一体化することによって、思想の絶対化→政治権力の絶対化という現象が生まれたのです。これも、儒教文化に起因するものということができますが、日本の場合は、折角、それを抑止する後期「去私」天皇制を持っていたのに、それを伝統思想として思想史に組み入れ国民の共有財産としてこなかったために、その知恵を生かすことができなかった。

 では、この時、本来、思想の絶対化を防ぐべきはずの「もののあはれ」はどのように作用していたのでしょうか。これは日本軍の玉砕、特攻精神に現れたように思います。問題は、それに殉じた人たちよりも、それを命じた指導者たちにあったのではないでしょうか。つまり彼ら自身の「もののあわれ」を感じる心はどのようなものだったか、ということではないでしょうか。一億玉砕を命じたその精神は、はたして「無私」といえるものだったか。

 以上の事を、日本の思想史的文脈の中で解明することが必要なのではないかと思っています。
6837253:Re: 蒋介石の「以徳報怨」はどう評価すべきか ap_09 Home 2011/02/09 (Wed) 11:21:07
この蒋介石の「以徳報怨」からなのでしょうが、父が戦後処理について中国は懐が深いというようなことをよく言っていました。でも彼は国民党を率いていたので、現政権の中国共産党からすれば敵ですね。これをもって現在の国のあり方としての中国を論ずるのは難しいところがあるような気します。中国共産党はしたたかですから、この蒋介石の行動をもってプロ中国、反日に欧米社会にアピールすることには大変成功していると思います。日本の分は悪いです。